盃の殿様
「おう、その方であるか。三百里の道を十日にて勤むると申すか。さようか。しからば、この盃を花扇が元へ持参いたし、この方一人(いちにん)にて寂しゅうていかん、よって相伴(あい)をいたすように、その方使いにまいれ。よいか」「ははッ」これから、ご前をさがると、すぐ盃をかついで、「えっさっさァ…」と駆け出したが…なにしろ、三百里の道を十日で往復する。と、一日で六十里でございますが、今でいうと二百四十キロ…そんなに歩けるものではなかろうと思うが、しかし本当にあったそうですね。昔、名古屋のそばの熱田というところに、速足(はやあし)の人がありまして、この人は六十歳位になったとき、朝六時ごろに熱田を出まして京都まで行って買物をして、夕景の五時ごろに帰ってきたという。もっとも若いときは、この人は百里歩いたといいますから、四百キロでございます。たしかにどうもそういう速足の人があったので…、えェ扇屋へまいりまして、早速東作がかようかようと告げると、花扇がそれへ出てまいりまして、涙を流し、「かずならぬわたくしをさほどまで思召し下さる…まことに冥加にあまる次第でございます。平生、お酒はたしなみませぬが、どうぞこれへ」(盃を両手にする)と、この七合入りのお盃へ、なみなみと注がして、ぐうーッとこれを飲んで、「このお盃を、殿はんへ(と渡す)」「ははッ」(受け取る)こいつをかついで、「えっさっさァ…」と駆け出す。(「圓生古典落語 盃の殿様」 集英社文庫) 領国へ戻った殿様と江戸吉原の遊女花扇の盃のやりとりを語った、六代目圓生の落語の一節です。
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